以下の文章は、論文誌「計測と制御」58巻8号(2019)に掲載された論文を転載したものです。

スマートシティからWikitopiaへ:
都市の未来を再考する

竹内雄一郎


1)スマートシティ

近年、スマートシティという言葉が世間を賑わせている。元々学会ではなく産業界から出てきた言葉ということもあり様々な定義が乱立しているような状況であるが、総じて「情報通信技術を活用することで効率的に運営される未来都市」、街中に敷き詰められたIoTデバイスが送電や交通網の動的な最適化を実現し、データ・ドリブンなアプローチが公共施設の配置や土地利用などに関する様々な意思決定をサポートする、まだ見ぬ新しい都市の形といった意味合いで用いられている。都市計画家のアンソニー・タウンゼントによれば、現在のスマートシティ・ブームは大手経営コンサルティング・ファームのブーズ・アレン・ハミルトンが2007年に発表したレポート——老朽化したインフラの改修や進行する都市化への対応のために、2030年までに全世界で41兆ドルもの投資が必要になるとの試算を発表した——にその源流を辿ることができるそうだ[1]。(翌年の金融危機を受けた民間投資の冷え込みも手伝い、IT企業の目は急速に公共事業へと向けられることとなった。)しかし情報技術を用いて都市の運営を効率化しようという考え自体は、取り立てて新しいものではない。

1960年代末、オペレーションズ・リサーチ(組織運営や軍事作戦など多分野における様々な意思決定を、数学的な手法を用いて支援することを目指す学術分野)の大家として知られるマサチューセッツ工科大学のジェイ・フォレスターが、「アーバン・ダイナミクス」と題した書籍を発表した[2]。二度の世界大戦においてミリタリー・ロジスティクス(兵站)の最適化、すなわち最善な部隊の配置や物資の配分の決定などに利用され成果を挙げたオペレーションズ・リサーチの手法を、より複雑かつ大規模なシステムである都市の運営に応用しようとした野心的な試みだ。アーバン・ダイナミクスはすぐに米国各地の自治体の関心を引き、複数の都市で交通システムの設計や警察署など各種施設の配置、ゾーニングの策定などに利用され始めた。しかし期待されたような成果を挙げることはできず(ジャーナリストのジョー・フラッドは、1970年代にニューヨークのブロンクスで最適化計算に基づく消防署の再配置が行われた結果、消化活動が間に合わなくなり多くの人命が失われたと書いている[3])、80年代に入る頃には衰退し都市政策に利用されることもなくなってしまった。

人工知能の例が特に有名だが、情報技術の世界では「ブーム」と「バスト」の繰り返し、つまり一旦は下火になった技術分野が、時代を超えて復活し再度流行する現象がしばしば見られる。21世紀のスマートシティ・ブームも、アーバン・ダイナミクスの2度目のブームと見ることができる。フォレスターの時代と比べると、現在ではコンピュータの計算能力は飛躍的に向上しており、また手に入るデータの量や種類も増大している。しかし基本的な理念や方法論について言えば、スマートシティとアーバン・ダイナミクスとの間にそれほどの差異は見られない。どちらも数学的モデルに基づいた都市の最適化や効率化を目指すビジョンであり、幾分還元主義的かつ機械的な都市像に根ざすものだ。

1.1)最適化の限界

ニューヨーク市の都市デザイン局長を長年にわたり務めたアレックス・ウォッシュバーンは、ジョン・F・ケネディの言葉を引用し「統治することは、選択することだ」と言う[4]。ウォッシュバーンによれば、都市政策において万人にとって便益のある施策などというものはほとんど存在しない。大抵の場合において、誰かの要望を聞き入れるということは他の誰かが不利益を被るということであり、都市運営とはすなわち都合の優先される者(勝者)とそうでない者(敗者)の線引きを行う仕事であると言う。

街中の信号機をより賢い(スマートな)ものに変えることで、都市全体の道路交通を効率化することは確かに可能だろう——他に車も歩行者もいないような状況で、延々と赤信号が点っているのを見るとそれは自明なことのように思える。しかしウォッシュバーンによればそのようなシナリオ、つまり最適化計算を通してシステム全体の非効率が解消され、皆が分け隔てなく恩恵を受けるようなシナリオというのは一般的に思われているよりもずっと少ないということだ。全体の効率化はすぐに頭打ちになり、誰かが勝者になれば必ず誰かが敗者になる、ゼロサムゲーム的な側面が顔を出してくる。最適な信号機とは、車の都合を優先するのかそれとも歩行者や自転車の都合を優先するのか?万人にとっての最適解は存在せず、勝者と敗者の政治的な選択が必要になってくる。同じことは送電や発電の最適化にも、鉄道など公共交通の最適化についても言える。優先されるべきは市民生活か地域経済か、都心か郊外か。システム全体を効率化できる余地というのは現実には少なく、それ以上の効率化は誰かが、何かが不利益を被ることでしか生まれない。

技術開発に携わる者からすれば悲観的に過ぎる考えのようにも思えるが、ウォッシュバーンの考えに従うならば、スマートシティが唱える隅々まで最適化された都市というのはそもそもが矛盾を孕んだ存在ということになる。都市は互いに相容れない要望を持つステークホルダーの集合体であり、その機械的な最適化には限界がある。ほとんどの場合において、一体何に対して最適化するのか、誰もが納得できる目的関数を記述することがそもそもできないのだ。

1.2)松島(ソンド)新都市

韓国の北西、黄海沿岸に、松島(ソンド)新都市と呼ばれる面積600ヘクタールほどの地区がある。おそらく世界で最も有名なスマートシティだろう。

街中に張り巡らされたセンサによって地区全域の天候や交通量、エネルギー利用状況といったデータが常時モニタリングされ、資源利用の効率化や公共サービスの最適化などに活用されている。最先端の高速インターネット環境が整備されていて、各家庭から高精細のテレビ会議システムを通して友人やら医者やら英会話教師やらと話すことができる。マンションやオフィスの各フロアにはゴミを自動吸引する機械が置かれ、捨てられたゴミは直接地下の処理施設まで移送される。環境負荷を低減する工夫が随所に施されており、計画によれば同規模の他都市と比べて温室効果ガスの排出量は約3分の2に抑えられ、また排水の40%が再利用されるという。あらゆる側面においてテクノロジーによる自動化が推進されており、たとえば前述のゴミ処理施設は普段ほぼ無人(地区全体で7人程度の人員)で、集められた大量のゴミを絶えず処理し続けている。

松島新都市は1986年に構想され、2003年に建設が始まった。「鉄道沿線が発展するのと同じように、グローバル化の進む社会では空港の近辺が栄える(エアロトロポリス)」との考えに基づき、仁川空港のすぐ近くに更地を用意して建設された。政府から経済特区に指定され、世界各国の企業のオフィスが立ち並ぶ、21世紀の韓国経済の中核を担う都市になるはずだった。しかし現在までのところ、松島は計画ほど人も企業も誘致できていない。地区の人口は当初の予想の2〜3割に留まっており、それも子連れの家庭が環境の良い静かなベッドタウンとして松島を選んでいる例が多く、活気のある知識産業の中心といったイメージからは程遠いようだ。多くの企業はソウルから動かないし、松島が新しいベンチャー企業設立のホットスポットになっているなどといった話も聞かない。辛口な一部メディアからは、「ハイテクなゴーストタウン」などと呼ばれるような有様だ。

松島は確かに未来的だが、それはいったい誰のための未来なのか。街を覆うセンサの群れや各家庭に配備されたテレビ会議システムは、住民の生活の質に対して最適化された結果だろうか、それとも松島計画に参画する企業の商業的利益を優先した結果だろうか。便利で清潔で緑豊かではあるが、そこに住む積極的な理由をどうも見出せない街――松島の現状はウォッシュバーンの言う最適化の限界、商業や文化や環境や市民生活など、多様な主体の多様な要望に対して漏れなく都市を最適化することがいかに困難かを示している。


2)市民がつくる未来都市

俗に言うムーアの法則に従って、過去半世紀にわたり計算機の処理能力は2年ごとに倍という驚異的なスピードで上昇し続けてきた。しかし情報技術の進歩は、単純な計算能力の向上といった量的な進歩にとどまらない。フォレスターの時代、すなわち1960年代、70年代の人々にとって、情報技術とは乱暴に言ってしまえば「賢い機械」を実現する技術だった。しかし21世紀を生きる我々にとって、情報技術というのはそれだけの存在ではない。

今20代くらいの若い人たちに、ITと聞いて真っ先にイメージするものは何かと尋ねたら、いったいどのような答えが返ってくるだろうか?スパコンによる大規模シミュレーションや、分散アーキテクチャを使った高速データ処理などが挙がるだろうか。いやそんな答えよりもずっと先に、YouTubeやFacebookといった様々なオンライン・サービスや、iPhoneなどそれらにアクセスするためのコンシューマ向けデバイスの名前が挙がるのではないだろうか。ITは今や単なる計算のためのツールではなく、新しいメディアでもある。このように社会の中でのITの役割が拡大していることは、情報技術を都市の運営にどう活かすのか、根本的な方法論のレベルで新しい発想を可能にしている。アーバン・ダイナミクスやスマートシティのような、「賢い機械」による効率的な都市の統治というイメージに縛られる必要はない。最適化アプローチで都市をつくることに限界があるなら、他のアプローチも混ぜてみればいい。

このような考えのもと、我々はWikitopia(ウィキトピア)という新たな未来都市のビジョンを提唱し、その実現に向けて研究開発を進めている。「みんな」で編集する百科事典Wikipediaの例に倣い、オンラインメディアの特徴である双方向性、大勢の雑多な人たちの自由な参加を許容する民主性を、都市のつくられ方に応用しようというビジョンだ。デジタルの世界の論理を現実の街に持ち込むという点ではスマートシティと変わらないが、ITの別の側面、インターネット・カルチャーの発展とともに徐々に顕在化してきた比較的新しい側面に着目している。

2.1)ITによる権限移譲

都市というものは、いったい誰の手によってつくられているのだろうか?自治体政府、デベロッパーなどの大企業、建築家や都市計画家といった専門家集団――様々な答えが考えられるが、いずれにせよ街をつくる権限というものは都市のユーザである一般市民に広く分け与えられているのではなく、特定の組織、特定の人々に集中して割り当てられていると言えるだろう。対してデジタルの世界では、LinuxやWikipediaなどといった(都市ほどではないにせよ)複雑で大規模、かつ信頼性の高いシステムを「みんな」の手でつくり上げる様々な仕組みが機能している。Wikipediaの記事を閲覧している人は、意志さえあればいつでも編集する側に回ることができるのだ。もちろん、システムをただ利用する人と自らつくる側に回る人とでは、前者の数が圧倒的に多いことは事実である。しかし後者の役割を担いたいと誰かが考えたとき、それを妨げるハードルは極めて低い。

つまりデジタルの世界では、緻密なもの、商業的価値の高いもの、ミッションクリティカルなものなどを含めた様々なシステムをつくる権限が、ユーザの側に委譲されている例が多々あるということだ。この権限委譲という言葉は、近年のITの動きを理解する上で重要なひとつのキーワードだろう。たとえばTwitterなどのソーシャルメディアやYouTubeのような動画配信サービスは、グローバルな情報発信の権限を限られたマスメディアから一般ユーザへと委譲した。それは新聞やテレビを通さなくても、誰でも世界中に向けて声を上げられる社会をもたらした。またKickstarterなどのクラウドファンディングサイトは事業の資金調達のプロセスを民主化し、どのようなプロダクトのアイデアが資金を得て製品化への道のりに着手できるか、それを決定する権限を一般ユーザへと委譲した。さらにはAirbnbはホテルを運営する権限を、Uberはタクシー業を営む権限を、やはり一般ユーザへと委譲している。このような権限委譲の事例は枚挙にいとまがなく、社会の諸側面においてこれまで少数が独占してきた様々な特権を「みんな」の側へと委譲し続けている。Wikitopiaはこのような、時代の意思とも言えるような権限移譲の流れを、都市のデザインに適用する試みだ。

批評家のジェイン・ジェイコブズは、「みんな」が便益を享受できる都市は「みんな」でつくり上げなければ決して実現することはないと述べた[5]。人種や性別、年齢や居住地域などの差異を踏み越えて、あらゆる人の要望を公平に反映できる都市というものは、おそらくトップダウン的な最適化アプローチ(のみ)からは生まれ得ないだろう。都市をつくる権限自体を「みんな」つまり市民の側に移譲し、街がつくられていくそのプロセスにあらゆる人が深く参加できる仕組みを構築することが求められる。我々は、技術の力を借りることでこの理想に挑みたい。

2.2)タクティカル・アーバニズム

Wikipediaのように街をつくるという考えは、人によってはまったくもって非現実的な、ただの夢物語に思えてしまうかもしれない。しかし似たような思想に基づいた試みは、実は世界のあちこちで出現している。米国サンフランシスコ市内には、現在60ほどの「パークレット(Parklet)」が存在する。これは道路脇の駐車スペースにつくられた小さな公園で、興味深い点は、これが自治体によってつくられているのではないということだ。地元の住民や商店などが協力してつくり維持していて、市はその自発的な行為に対して許可を出しているにすぎない。サンフランシスコ市においてパークレットが公的制度として運用され始めたのは2009年のことだが、それから約10年経った今、同様の制度は米国だけでなくヨーロッパやオーストラリアなど世界各地の都市で採用されている。また広場の整備や庭園・農園の造成、遊具の設置など、パークレット以外にも様々な形での自発的な街づくりを許容する制度が出現している。つまり住民が、地域にこれが欲しい、これが必要だと新しいアイデアを発案したときに、それを実現できるような仕組みが登場しているのだ。このような市民による自発的な都市のデザインは総称して「タクティカル・アーバニズム」などと呼ばれ[6]、街づくりにおけるひとつの新たな潮流を形成しつつある。

また2016年にエクアドルで開催されたHABITAT III(第三回国連人間居住会議、主に新興国における都市開発を扱う巨大な国際会議)における議論や、ここ最近のプリツカー賞・ターナー賞などの受賞者の顔ぶれを見ても、近年の建築やデザイン分野において市民の自発性に根ざしたDIY(Do-It-Yourself)的な街づくりが注目を集めていることがわかる。我々の活動は、こうした世界各地における新しい議論や実践と軌を一にしつつ、先端技術を用いることで自発的な都市のデザイン——現状、まだ限られた地域における限られた規模の活動にとどまっている——のスケーラビリティを上げていくことを狙っている。

2.3)ピア・プロダクション

ヨハイ・ベンクラーによれば、WikipediaやLinuxに見られるような生産方式、すなわち互いに顔も知らない不特定多数の人々が自主的に協力し大規模な人工物を生産する行為(ピア・プロダクション)がうまく機能するためには、「その人工物全体を生産する行為が、様々な粒度のより細かな生産行為に分解できる」必要があるという[7]。Wikipediaの編集者は、新しいトピックに関する記事を一から書くといった大きな貢献をすることも、既存の記事に細かな修正を加える(著名人の誕生日の間違いを正すなど)といったごく小さな貢献をすることもできる。Linuxなどのオープンソース・ソフトウェア開発についても同様だ。対して小説や映画をピア・プロダクションで制作する試みは、一時期注目を集めたものの目立った成果を挙げることなく衰退している。ベンクラーの考えに従えば、小説の一部を修正することは全体のストーリーや人物設定などに対する深い理解や配慮なしには行えず、従って細かな生産行為への分解が完全には行えないというのが失敗の理由だ。

DIY的に都市をデザインする行為も、道端に花を植えるといった小さな行為から広場の整備や公共施設の建設といった大きな行為まで、幅広い粒度の、しかもそれぞれがある程度独立した生産行為に分解することができる。現実の都市空間を改変するわけだからWikipediaのようなソフトウェアの世界に閉じた対象とは様々な面で違いがあるが、原理的に街づくりというのはピア・プロダクションすなわち「みんな」の手による生産行為に向いている対象だと言えるだろう。


3)Wikitopia Project

2018年、我々は研究活動の一環として「Wikitopia International Competition」と題した国際的なデザインコンペを開催した。市民の手による街づくりを実現する具体的なアイデアを広く国際的、学際的に募集し、今後の研究プロジェクトの方向性を決定する一助とすることを目指したものだ。コンペには合計170点の作品が集まり、うち6割強が日本国外からの応募であった。以下に挙げるようにローテクなものやハイテクなもの、小規模なものや大規模なものなど、実に様々な種類のアイデアが寄せられた(応募作品の詳細は公式ウェブサイト[8]に掲示されているので、ぜひ参照されたい):

・パークレットのようなDIY的、ローテクな街づくりの手法をさらに発展させたアイデア
・グラフィティなどの自発的なストリート・アートをさらに発展させたアイデア
・スマートフォンやスマートグラス上で動作する拡張現実(AR)を取り入れたアイデア
・大型ディスプレイやプロジェクタなど、環境に設置されるデジタル機器を使用するアイデア
・3Dプリンティングなど新しい製造技術を用いて建物やファニチャーを生成するアイデア
・オンライン投票やクラウドファンディングなど、ネットを介した合意形成を取り入れたアイデア
・自動運転車やドローンなど、次世代のロボティクス技術を取り入れたアイデア
・建物や土地のシェアリングなど、既存リソースを多数で効率的に共有するアイデア

Wikitopiaは単一の技術やアイデアによって実現されるものではなく、多種多様なアイデアの集合体によって漸近的に実現されていくというのが我々の考えである。もちろん、都市は気候や地形、文化や経済などそれぞれ固有の特徴を備えたものであり、そのためWikitopiaは各地域ごとに異なる実装、すなわち異なる施策や技術、アイデアの組み合わせによって具現化されることになる。

3.1)街を編集する工学技術

Wikitopiaの実現に向けて、我々はいくつかの技術開発プロジェクトを遂行している。このうち特に重点を置いているのが、「街をエディット(編集)する」新しい技術群の開発である。Wikipediaの記事やオープンソース・ソフトウェアは突き詰めて言うとすべて電子データ、すなわち0と1の集合体で記述され、情報機器を通じて簡単に改変することができる。対してWikitopiaが扱うのは石やガラスや木材、アスファルトや鉄やコンクリートなどから構成される現実の都市空間であり、その形状や見た目を改変することはPC上でテキストデータを編集するほど容易ではない。前述のコンペに応募された作品の中にも、スマートグラスを用いた拡張現実や大規模3Dプリンティング、形状変化ディスプレイなど近未来の「街をエディットする」技術が数多く登場する。地域住民が空き地を自主的に(鍬やスコップなどを使って)緑化するゲリラ・ガーデニングなど既存技術のみを用いて都市空間を改変する手法も存在するが、概して労働集約的であり、新しいテクノロジーの登場なくしては市民の手による街づくりはスケーラブルな活動にはならないだろう。

我々の技術開発プロジェクトの全体を紹介するには紙幅が足りないため、一つだけ例を挙げることにする。我々は土の代替として機能する特殊な樹脂素材を用いることで、植物の生い茂る「庭」を3Dプリントする技術を開発している[9]。建築物を3Dプリントする試みは世界各地で実施されており、比較的小さなスケールではすでに実用化されている例も存在する。しかし都市の環境は狭義の建築物だけで構成されているわけではなく、芝生や街路樹、壁面緑化や屋上庭園などといった「半自然」的な要素も、その重要な一部である。我々の技術を用いれば、これら「半自然」的な要素を建築物と合わせて3Dプリントすることができ、従って総合的な住環境のプリントに手が届く。現時点では小規模(一辺数十センチ程度)の「庭」のプリントに終始している状態であるが、将来的には前述のパークレットや庭付きの小屋、簡単な農場やビオトープなどを丸ごと3Dプリントすることが可能になると考えている。「みんな」で街をつくるプロセスから、最も労働力や時間、特殊技能を要する部分を取り除こうとしているのだ。

3Dプリンティング以外にもIoTや拡張現実など複数の分野にまたがる技術開発を実施しており、いろいろな視点からデジタルメディアのような改変可能性を都市空間に与える試みを進めている。また独自の技術開発を行う以外にも、インタラクティブ技術と居住空間との境界領域を扱う国際会議ACM ISSの運営に関わるなど(2018年の会議では筆者が運営委員長を務めた)、国際的な研究者のコミュニティを巻き込んで「街をエディットする」技術の開発を盛り上げていこうと尽力している。

3.2)個人の利益・コミュニティの利益

将来的に上記のような技術開発が実を結び、多様な「街をエディットする」技術群が出揃い実用化されたと仮定してみよう。

「この道がもう少し広ければ」
「ここにもう少し緑があれば」
「この建物に雨宿りできる庇があれば」

このような街に対する素朴な要望を、住民が自発的に実現できる社会が到来したとする。民主的な街づくりとは言えるだろうが、そのように「みんな」でつくられる街が、我々にとってよりよい街になるという保証は存在するだろうか?

民主化や自由化、既存権威から市民の側への権限移譲を推し進めることは、必ずしもよい結果のみを生み出すとは限らない。TwitterやFacebookは情報発信を民主化し、それは新しい自己表現やコミュニケーションの形、新しいジャーナリズム、新しい社会運動などを生み出したが、同時にクリックベイトやフェイクニュースなどの隆盛にもつながった。AirbnbやUberは個人の視点から見れば便利なサービスだが、一部地域では地価の上昇や都心の交通量増大の要因になっているなどとして批判にさらされている。「コンピュータは現代の自転車だ」というのが、若き日のスティーブ・ジョブズの決まり文句だった。確かに自転車と同じように、情報技術は個人の能力を拡張し、個人の体験を強化してきた。しかしその結果、個人の利益とコミュニティ全体の利益すなわち公益とがぶつかる事例が頻出している。

街づくりに関しても、「街をエディットする」自由だけを追い求めると歪みが生じるだろう。我々は民主的な都市のデザインが、マイノリティを含む多様な人々の要望をより反映した街づくりや社会的変化に対する柔軟で素早い対応、災害に対するレジリエンシーの向上などにつながると信じている。しかし自由経済は信じても徹底したリバタリアニズムは信じないように、また民主主義は信じてもあらゆる事柄を国民投票によって決めようとは思わないように、市民の自発性に任せれば「見えざる手」の調整機能がすべての問題を解決してくれると考えるわけではない。ボトムアップ的なメカニズムだけでは担保されない価値というものがあり、従ってWikitopiaは慎重な全体のシステム設計があってはじめて成立するビジョンなのだ。

前述の「街をエディットする」技術群の開発に加え、我々は自発的な都市のデザインが大規模に運用されるようになったときそれが全体としてうまく回るような仕組み、つまり「みんな」の手による自由で雑多な活動の総体が混乱をもたらすのではなく、都市に肯定的な影響をもたらすことを保証する仕組みの開発にも着手している。具体的な中身についての説明は別の機会に譲るが、この全体のシステム設計というのは極めて難しく、また挑戦しがいのある情報工学的問題だと我々は考えている。情報工学においては、長らく個人に帰属する(パーソナル・)デジタルテクノロジーの開発が主要なテーマとして関心を集めてきた。その反面、コミュナルなデジタルテクノロジー、すなわち「みんな」の協働や共生を支援する情報技術の開発については比較的ノウハウの蓄積が進んでいないと言えるだろう。


4)おわりに

本稿では先端技術を活用した未来都市に関する二つのビジョン、スマートシティとWikitopiaについて論じた。前半部分、スマートシティに対して過剰に批判的な印象を与える文章になってしまっているかもしれないが、既存の試みを否定することが我々の意図ではない。都市の未来についての議論が現状、AIやビッグデータ、ロボティクスなどの技術によってトップダウン的に最適化される都市という単一のイメージに偏重しており、それではバランスを欠くというのが我々の主張だ。経済政策に関してケインズ派とハイエク派が存在するように、政治学においても経営学においても伝統的な都市計画においても、統制を重んじる立場と自由を重んじる立場、トップダウン的な思想とボトムアップ的な思想が(時代ごとに趨勢の変化はあるものの)常に並存してきた。未来都市に関するビジョンにも、同様のバランスが必要だろう。つまりWikitopiaはスマートシティを置き換えるビジョンではなく、補完するものだ。

今後我々は、本稿でも一部紹介したような様々な技術開発や実践活動、本稿のような文章の発表など多岐にわたる活動を予定している。長期的にはWikitopia特区(公共空間の利用に関する規制が緩和された実験地区)をつくり、開発した技術や理念の実証を進めていく計画だ。本稿を通して我々の活動に価値があると感じていただけたなら、ぜひ今後いろいろな形でプロジェクトに関わっていただけるとありがたい。


参考文献

[1] Townsend, A. Smart Cities: Big Data, Civic Hackers, and the Quest for a New Utopia. W. W. Norton & Company. 2013.
[2] Forrester, J. W. Urban Dynamics. MIT Press. 1969.
[3] Flood, J. The Fires: How a Computer Formula, Big Ideas, and the Best of Intentions Burned Down New York City — and Determined the Future of Cities. Riverhead Hardcover. 2010.
[4] 竹内雄一郎(編). 未来都市アトラス. 株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所. 2017.
[5] Jacobs, J. The Death and Life of Great American Cities. Random House. 1961.
[6] Lydon, M., Garcia, A. Tactical Urbanism: Short-term Action for Long-term Change. Island Press. 2015.
[7] Benkler, Y., Shaw, A., Hill, B. M. Peer Production: A Form of Collective Intelligence. MIT Press. 2015.
[8] https://wikitopia.jp/competition/
[9] Takeuchi, Y. 3D Printable Hydroponics: A Digital Fabrication Pipeline for Soilless Plant Cultivation. IEEE Access, Volume 7. 2019.


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