WIKITOPIA MANIFESTO

by Yuichiro Takeuchi
Version 1.1 (May 21, 2019)

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Wikipediaのように、「みんな」で街をつくれるか?

2017年秋に発足したWikitopia(ウィキトピア)プロジェクトは、このようなひとつの簡単な問いから出発している。


少々回りくどくなるが、ちょっとした昔話から始めたい。

もうかれこれ10年以上前、僕が研究者として興味を持っていたのは「空間のデジタル化」の可能性――すなわち、可変性やらインタラクティブ性やらといったデジタルメディアの持つ特徴的な性質を、どのようにすれば現実の空間に付与することができるだろうか、ということだった。テレビゲームのような世界を実現したいと思った、と言えばわかりやすいかもしれない。ゲームの世界は何もかもが(書き換え可能な)ピクセルでできていて、だからちょっと土管をくぐり抜けたり、呪文を唱えたりすれば、瞬時に世界が切り替わったりする。しかし現実の世界では、ドアの向こうにあるのはいつも代わり映えのしない同じ景色だし、簡単な部屋の模様替えだって結構な時間と労力が必要だ。なんて退屈なのだろうか。

当時、いろいろな実験を行った。たとえば特殊なヘッドセットを使うことで、屋内空間の自由な位置に、音を遮る見えない「壁」を作り出す仕組みを試作した。騒がしいオープンプランオフィス内でも一瞬にして少さな部屋を作り出し、その中では静かに会話をすることができる。拡張現実技術を応用して、タブレットを通して街を見ると建物が揺れたり踊りだしたり、あるいは「食べログ」の点数に応じてその高さを変えたりするアプリも作ってみた。タッチスクリーン用の触覚フィードバック技術をインソールに組み込んで、歩行時の地面の感触を変えられる仕組みも作った。

分野外の人にとっては理解し難いことかもしれないが、この頃は「空間をデジタル化」して一体どうするのか、という点についてはそれほど深く考えていなかった。情報工学において、このような(一見無責任、無目的な)態度は取り立てて珍しいものではない。アイバン・サザーランドが1965年に発表したエッセイ「The Ultimate Display」にもあるように、デジタルメディアの可変性が持ち込まれたプログラマブルな実空間というのは、それが実現して何がどうなる、ということはひとまず脇に置いておいて、昔からこの分野の技術者にとっておぼろげな夢のようなものだったのだ。僕はそのバトンを受け継いだにすぎない。


しかし、次第に僕の考えは変わってきた。「空間がデジタル化」されることで我々の生活はどう変わるのか、都市はどう変わるのか。そういった、技術のもたらす結果に対する興味が強くなってきたのだ。きっかけはいくつかある。

ひとつはハーバードGSD(Graduate School of Design)への留学だ。曲がりなりにも空間を研究対象とするのだから空間について少しは専門的に学ぶべきだろう、といった単純な動機で、2010年から2012年までの2年間をボストンで過ごした。GSDは建築と都市計画の大学院で、生粋の情報系の人間である僕が(情報系の学科を出て情報系の専攻で博士号を取り、「ソニーコンピュータサイエンス研究所」なんて名前の会社に入ったわけだからもう純粋培養と言っていい)それまで過ごしてきた環境とはまったく異なるものだった。混乱と驚きに満ちた2年間が過ぎて東京に戻る頃には、僕はすっかり社会的格差の増大にITが及ぼしている影響だとか、スマートフォンの普及がもたらす都市生活の変化なんかについて日常的に考えるようになっていた(洋服選びのセンスも少しはましになったかもしれない)。自分のそれまでの研究内容についても、たとえば拡張現実を用いて誰もがそれぞれの好きな形に改変された街を体験する未来というのは、果たして望ましいものなのだろうかと疑問に思ったりするようになっていた。自分でも気づかないうちに、興味の幅が広がっていたのだ。

もうひとつは、研究の社会における役割に対する考え方の変化だ。もともと、僕の携わっているような応用分野の研究というのは、より長期的視野に立った基礎研究と実社会における製品開発とをつなぐ、パイプのような役割を期待されているものだ。しかし元ハーバード大学教授(現Google)のマット・ウェルシュが書いているように、IT業界においてこのようなパイプ役の必要性は年々薄れている。基礎研究から直接製品開発につなげることができるので、結果的に応用研究がバイパスされる、中抜き現象が起こっているのだ。基礎研究とインダストリーの製品開発さえあれば、イノベーションは淀みなく生まれ続けてしまう。たとえば僕の出身分野であるHCI(ヒューマン・コンピュータ・インタラクション、代表的な情報系の応用分野だ)が、突然丸ごと消えてなくなってしまったらどうなるだろう?淋しい話だが、おそらく技術革新の速度にたいした影響はない。応用分野に従事する研究者がイノベーションの生まれるプロセスに貢献し続けるには、自身の役割を拡大し、技術の社会実装まで一貫して取り組んでいく以外に道はないだろう――こんな風に考え始めた僕は、もうラボの中で実験を繰り返すだけでは飽き足らなくなっていた。


そんな折の2013年、友人たちに誘われて、MIMMIというインスタレーションの制作に参加することになった。米国ミネアポリス市の中心部広場に半年間設置される大型のインスタレーションで、テクノロジーを駆使した目新しいものにしたいという要望から、研究者である僕に声がかかったのだ。税金を財源とした失敗の許されないプロジェクトだったから、技術的にそれほど実験的なことができるわけではなかった。結局、Twitterを解析して割り出されるミネアポリス市民のその時々の「気分」を、光と霧と音によって表現する、幅25メートルほどの構造物ができあがった。

MIMMIはハードウェアもソフトウェアもすべて既存技術の寄せ集めだったから、先端技術の開発に長く関わってきた僕は、正直なところその出来に完全に満足していたわけではなかった。独創性のない「よくあるもの」になってしまった気がして、研究に割くべき貴重な時間を無駄にしてしまったのではないかとすら思った。しかし現地から届く写真や映像を見ると(残念ながら、僕は実際に完成後に現地を訪れることはできなかったのだ)、世代や性別、人種を問わず、大勢の人がMIMMIの周りで寝転んだり踊ったり追いかけっこをしたり、楽しそうに時間を過ごしている。これはどういうことだろう?「みんな」のツイートに基づいて見た目や挙動が変わる単純な構造物なんてものが、どうしてそんなに面白いのだろう?

僕は「みんな」という言葉に秘密があるような気がした。僕の研究ではそれまでモバイルだとかウェアラブルだとか、個人に帰属し、個人の体験を強化し、周りの風景や人々から個人を切り離すようなテクノロジーを多く扱ってきた。「空間をデジタル化」する諸技術に関する研究でも、個人が自分の好きなように空間を変容させるようなシナリオを思い描いていた。MIMMIを通して僕の関心は個人から「みんな」へと移り、それはWikitopia――すなわち「みんな」の手によって絶えず編集され、改良されていく未来の都市のイメージが生まれるきっかけになったのだ。


長々と説明してしまったが、このような僕個人の事情なんて本来はどうでもいいことだ。Wikitopiaプロジェクトは貴重な公的資金を受けて発足した研究プロジェクトなのだから(立ち上げの費用は科学技術振興機構に支援していただいた)、問われるべきは、これが目指すべき「みんな」の未来像として果たしてふさわしいものであるかどうかということだ。

Wikitopiaプロジェクトを正式に立ち上げる前のステップとして、僕は以前、大勢の人に協力してもらいながら「未来都市アトラス」という冊子を制作した。「技術がこれから都市をどう変えていくか」というテーマで、マサチューセッツ工科大学教授のカルロ・ラッティ、芸術家のオラファー・エリアソン、元ニューヨーク市都市デザイン局長のアレックス・ウォッシュバーンなどそれぞれ第一級の専門家に寄稿してもらった文章をまとめたものだ。その冊子の中で都市計画家のアンソニー・タウンゼントが書いていることだが、ITなど先端技術を取り入れた未来都市のイメージというと、現状ではいわゆる「スマートシティ」が支配的な地位を占めている。ネットワークに接続されたセンサやらカメラやらを大量に街中に敷き詰めて、リアルタイムで情報を吸い上げ解析し、交通や送電など都市の諸側面を隅々まで効率化する――主にAIとビッグデータ、ロボティクスによって実現される、常時トップダウン的に最適化される未来都市のビジョンだ。IBMやCiscoなど大企業の後押しもあり、このビジョンは世界中の都市開発に大きな影響力を持つに至っている。

スマートシティという用語自体は世紀の変わり目辺りに出現した比較的新しい言葉だそうだが、似たような概念は実は古くから存在している。オペレーションズ・リサーチ(組織や施設の運営を、科学的なアプローチを用いて最適化することを目指す学問分野)の大家、マサチューセッツ工科大学のジェイ・フォレスターが1969年に発表した書籍「Urban Dynamics」には、21世紀型のスマートシティが志向しているのと同じような、コンピュータ上のシミュレーションに基づいた短期的・長期的な都市運営の最適化がすでに論じられている。そこで述べられた方法論は70年代に多くの都市で実践に移され、一時の流行を経て廃れていったのだ。

そのような歴史を踏まえて改めてスマートシティについて見てみると、どうにも拭いきれない古臭さを感じてしまう。インターネット・カルチャーが登場する以前のビジョン、情報技術がまだ「賢い機械をつくる技術」でしかなかった時代のビジョンのように思えてしまうのだ。

今20代くらいの若い人に、ITと聞いて真っ先にイメージするものは何かと尋ねたら、一体どんな答えが返ってくるだろう?スパコンによる大規模シミュレーションや、分散アーキテクチャを使った高速データ処理などが挙がるだろうか?いやそんな答えよりずっと先に、iPhoneなどのコンシューマ向けデバイスや、それらを通してアクセスされるYouTubeやFacebookといった様々なオンライン・サービスの名前が挙がるだろう。ITは今や単なる計算のためのツールではなく新しいメディアでもあるのだが、そうした視点がスマートシティには欠けている。「鉄腕アトム」や「2001年宇宙の旅」の時代の未来像、つまりスマートフォンもソーシャルメディアも登場しない、AIやロボティクス「のみ」によって形作られる未来像に、未だに引きずられているように見えるのだ。(これは余談になるが、僕は日本政府の提唱する未来社会像「Society 5.0」に対しても、同様に古めかしいという印象を抱いている。)

そして現実に世界の代表的なスマートシティ・プロジェクト、たとえばアブダビのマスダール・シティや韓国の松島(ソンド)新都市といったプロジェクトは、期待されていたような成果を生み出すことができていないようだ。活気に満ちた、テクノロジーの粋を極めた未来都市のプロトタイプになるはずだったのが、一部ではハイテクなゴーストタウンなどと揶揄されるような有様だ。AIのアルゴリズムが未成熟だとか、インフラの敷設が不完全だとか失敗の理由はいろいろ挙げられるだろうが、そのような技術面の不備は事の本質ではないだろう。理論面の進歩が、半世紀も前から見られないことこそが問題なのだ。

都市計画的な文脈から見ても、そもそもトップダウン的な全体最適化を前面に押し出した計画都市なんてものは、20世紀を通してブラジリアやチャンディーガルなど世界各地で試みられて、現在では大方放棄されているパラダイムではないだろうか。AIだとかIoTだとか流行りのバズワードで覆い隠したからといって、鉛を黄金に変えられるわけではない。スマートシティは情報技術の未来像としても、都市計画の未来像としても、同様に時代から取り残されているのだ。


Wikitopiaはオンラインメディアの双方向性、大勢の雑多な人たちの自由な参加を許容する民主性を、都市のつくられ方に応用しようというビジョンだ。デジタルの世界の論理を現実の街に持ち込むという点ではスマートシティと変わらないが、ITの別の側面、インターネット・カルチャーの発展とともに徐々に顕在化してきた比較的新しい側面に着目している。

我々が日々生活する都市をつくっているのは一体誰だろうか?自治体政府、デベロッパーなどの大企業、建築家や都市計画家といった専門家集団――様々な答えが考えられるが、いずれにせよ街をつくる権限というものは都市のユーザである我々一般市民に広く分け与えられているのではなく、特定の組織、特定の人々に集中して割り当てられているようだ。対してデジタルの世界では、たとえばLinuxやWikipediaなどのように、(都市ほどではないにせよ)複雑で大規模、かつ信頼性の高いシステムを「みんな」の手でつくり上げる様々な仕組みが機能している。Wikipediaの記事を閲覧している人は、意志さえあればいつでも編集する側に回ることができるのだ。もちろん、システムをただ利用する人と自らつくる側に回る人とでは、前者の数が圧倒的に多いことは事実である。しかし後者の役割を担いたいと誰かが考えたとき、それを妨げるハードルは限りなく低いのだ。

つまりデジタルの世界では、緻密なもの、商業的価値の高いもの、ミッションクリティカルなものなどを含めた様々なシステムをつくる権限が、ユーザの側に委譲されている例が多々あるということだ。この権限委譲という言葉は、近年のITの動きを理解する上で重要なキーワードだろう。たとえばTwitter、FacebookといったソーシャルメディアやYouTubeのような動画配信サービスは、グローバルな情報発信の権限を限られたマスメディアから一般ユーザへと委譲した。それは新聞やテレビを通さなくても、誰でも世界中に向けて声を上げられる社会をもたらした。またKickstarterなどのクラウドファンディングサイトは事業の資金調達のプロセスを民主化し、どのようなプロダクトのアイデアが資金を得て製品化への道のりに着手できるか、それを決定する権限を一般ユーザへと委譲した。さらにはAirbnbはホテルを運営する権限を、Uberはタクシー業を営む権限を、(各地で軋轢を生み出しながらではあるが)やはり一般ユーザへと委譲している。このような権限委譲の事例は枚挙にいとまがなく、社会のあらゆる側面へと侵食を続けている。今やITの発達により、これまで少数が独占してきた様々な特権が広く「みんな」へと委譲されることは、当然のこととして期待されるようになっている。Wikitopiaはこのような、時代の意思とも言える権限委譲の流れを、都市のデザインに適用する試みだ。


「Wikipediaのように街をつくる」なんて聞くと、人によってはまったくもって非現実的な、ただの夢物語だと思うかもしれない。しかし似たような思想に基づいた試みは、実は世界のあちこちで出現しているのだ。米国サンフランシスコ市内には、現在60ほどの「パークレット(Parklet)」が存在する。これは道路脇の駐車スペースにつくられた小さな公園で、興味深い点は、これが自治体によってつくられているのではないということだ。地元の住民や商店などが協力してつくり維持していて、市はその自発的な行為に対して許可を出しているにすぎない。サンフランシスコ市においてパークレットが公的制度として運用され始めたのは2009年のことだが、それから約10年経った今、同様の制度は米国だけでなくヨーロッパやオーストラリアなど世界各地の都市で採用されている。また広場の整備や庭園・農園の維持、遊具の設置など、パークレット以外にも様々な形での自発的な街づくり(総称して「タクティカル・アーバニズム」などと呼ばれる)を許容する制度が出現している。つまり住民が、地域にこれが欲しい、これが必要だと新しいアイデアを発案したときに、それを実現できるような仕組みが登場しているのだ。

また2016年にエクアドルで開催されたHABITAT III(第三回国連人間居住会議、主に新興国における都市開発を扱う巨大な国際会議)における議論や、ここ最近のプリツカー賞・ターナー賞などの受賞者の顔ぶれを見ても、近年の建築やデザイン分野において、市民の自発性に根ざしたDIY(Do-It-Yourself)的な街づくりが新たな潮流を形成していることは容易にわかる。スマートシティの推進者たちが前世紀的なビジョンに囚われ続けている間に、都市のデザインに関する議論や実践は着実に前に進んでいるのだ。Wikitopiaプロジェクトではこうした世界各地における動きを参考にしつつ、ITをはじめとした数々の先端技術を駆使することで、自発的な都市のデザインを一気にスケーラブルな活動へと押し上げていくことを狙っている。

ジェイン・ジェイコブズは、「みんな」が便益を享受できる都市は「みんな」でつくり上げなければ決して実現することはないと述べた。人種や性別、年齢や居住地域などの差異を踏み越えて、あらゆる人の要望を公平に反映し続ける都市というものは、スマートシティのような最適化アプローチ(のみ)からは生まれ得ない。都市をつくる権限自体を市民の側へと移譲し、街がつくられていくそのプロセスにあらゆる人が深く参加できる仕組みを構築することが必要だ。我々は、技術の力を借りることでこの理想に挑みたい。


この文章は、我々Wikitopiaプロジェクトが研究活動の一環として2018年に開催した国際コンペ、WIKITOPIA INTERNATIONAL COMPETITIONを機に発表すべく書かれ、その後継続的に改訂されているものだ。このコンペでは「みんな」で街をつくる具体的な方法について、パークレットなど既存の例を超える新しいアイデアを、広く世界中から募集した。ローテクなものやハイテクなもの、小規模なものや大規模なもの、なんでもありだ。コンペは二回に分けて開催され、合計170点もの多彩な作品が集まった。応募作品は、重度の様式違反があるなどした一部のもの以外はすべて公式ウェブサイト上に掲載されている。これらを見ていくと、「みんな」でつくる未来都市というのは実に様々な技術、デザイン、制度その他の組み合わせによって実現されるものだということが想像できる。もちろん都市は気候や地形、文化や経済などそれぞれ固有の特徴を備えているから、実装には地域差も生まれるはずだ。

このようにWikitopiaの実現には多岐にわたるイノベーションが必要であり、それは一研究プロジェクトが担える範囲を大きく超えている。単身で達成できるような目標ではない。我々は社会的インパクトの創出に重点を置いた戦略的な研究活動を通して、Wikitopiaへと向かう広範な運動を引き起こし先導する、旗振り役としての機能を果たしたいと考えている。


Wikitopiaプロジェクトは多面的な活動を行うことを旨としているが、核にあるのは新たな工学技術の開発だ。現在取り組んでいる技術開発は、大きく分けて以下の2つの方向性に分類できる。

一つ目は、「街をエディット(編集)する」新しい技術群の開発だ。Wikipediaの記事やオープンソース・ソフトウェアは突き詰めて言うとすべて電子データ、すなわち0と1の集合体で記述され、情報機器を通じて簡単に改変することができる。対してWikitopiaが扱うのは鉄やコンクリート、木やアスファルトなどから構成される現実の都市空間であり、その見た目や形状を改変することは、PC上でテキストや画像を編集するほど容易ではない。前述のコンペに応募された作品の中にも、スマートグラスを用いた拡張現実や大規模3Dプリンティング、次世代デジタル・ディスプレイなど近未来の「街をエディットする」技術が数多く登場する。もちろん、都市空間の改変は既存技術のみを使って行うことも可能であり(たとえば鍬やスコップを使って空き地を緑化するなど)、そうしたアプローチも間違いなくWikitopiaを構成する重要な一部になる。しかし労働集約的な手法だけでは、スケーラビリティを獲得することは難しい。新しいテクノロジーの登場なくしては、市民の手による街づくりは限られた地域における限られた規模の活動にとどまってしまうだろう。

進めている技術開発の具体例を、ここではひとつだけ挙げることにしよう。我々は土の代替として機能する特殊な樹脂素材を用いることで、植物の生い茂る「庭」を3Dプリントする技術を開発している。建築物を3Dプリントする試みにはすでに世界中に前例があり、比較的小さなスケールではすでに実用化も始まっている。しかし都市の環境は狭義の建築物だけで構成されているわけではなく、芝生や街路樹、壁面緑化や屋上庭園といった「半自然」的な要素も、その重要な一部だろう。我々の開発している技術を用いれば、これら「半自然」的な要素を建築物と合わせてプリントすることができ、従って総合的な環境の3Dプリントに手が届く——都市を構成する様々な要素の大部分を簡単に、安価にプリントすることが可能になるのだ。それは街を「みんな」でつくるプロセスから、最も労働力や時間、特殊な技能を要する部分を取り除く結果になるはずだ。未来のパークレットは、丸ごと3Dプリントされるようになるかもしれない。

二つ目の方向性は、公益を保証する仕組みの構築だ。我々は自発的な都市のデザインが今よりもずっと大規模に運用されるようになったときそれが全体としてうまく回るような仕組み、つまり「みんな」の手による自由で雑多な活動の総体が混乱をもたらすのではなく、都市に肯定的な影響をもたらすことを保証する仕組みを構築しようとしている。大勢の市民が参加し主導する都市のデザインは、多様な人々のニーズにうまく応える街づくりや社会的変化に対する柔軟で素早い対応、災害に対するレジリエンシーの向上などにつながると我々は信じている。しかし自由経済は信じても徹底したリバタリアニズムは信じないように、また民主主義は信じてもあらゆる事柄を国民投票によって決めようとは思わないように、市民の自発性に任せれば「見えざる手」の調整機能がすべての問題を解決してくれると考えるわけではない。ボトムアップ的なメカニズムだけでは担保されない価値というものがあり、したがってWikitopiaは慎重な全体のシステム設計があってはじめて成立するビジョンなのだ。

この全体のシステム設計というのは、極めて難しく、挑戦しがいのある情報工学的問題だ。集団的な、「みんな」の活動を支援するテクノロジーの設計について、実のところ我々はそれほど豊かなノウハウを有しているわけではない。Wikipediaが比較的うまく機能している仕組みだということはわかっていても、それが「なぜ」うまく機能しているのか、その設計のどこに秘密があるのかは完全には解明できていない。またFacebookは連日の批判を受けても、自由な発言を許容しつつ、フェイクニュースの流通を抑えるうまい仕組みの構築ができずにいる。情報工学においては、長らく個人に帰属する(パーソナル・)デジタルテクノロジーの開発が主要なテーマとして関心を集めてきた。その反面、コミュナルなデジタルテクノロジー、すなわち「みんな」の協働や共生を支援する情報技術の開発については、十分な技術的、学術的探索が行われてこなかったのだ。Wikitopiaの基盤をなす、市民の自発的活動と都市全体の公益とのバランスを取るシステムの構築は、まさに未知への挑戦であり、大げさでなく今後の情報工学における最重要課題のひとつだと言えるだろう。


これから我々Wikitopiaプロジェクトは、上で述べたような様々な技術開発や実践活動、本稿のような文章の発表など多岐にわたる活動を予定している。長期的にはWikitopia特区(公共空間の利用に関する規制が緩和された実験地区)をつくり、開発した技術や理念の実証を進めていく計画だ。我々は国境を超えた活動を志向しているし、またそもそも生まれも育ちも日本でない僕が代表を務めているから、立ち上げ当初はどうしても海外での活動に重きが置かれてしまっていた(発足以来唯一のワークショップもボストンで開催した)。しかし現在、国内での活動も急ピッチで強化している。この文章を通して我々の活動に価値があると感じていただけたなら、ぜひ今後いろいろな形でプロジェクトに関わってもらえるとありがたい。「都市のつくられ方を変える」などという壮大な冒険には、たくさんの道連れが必要なのだ。


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